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明窓浄机

明るい障子の前に置かれた小さな机。
きれいにかたづけられた小部屋に朝の冷気が満ちて…
と、まあ、こんな理想を描きながら、散らかった机の上で書いています。
<< 密江から電湾子 | main | 間島 >>
琿春
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    Nさんは山を越えてたどりついた電湾子で、背負って歩き続けた二才の妹を亡くす。十月に入り、帰りついた琿春で四才の妹を亡くし、十二月、母親が亡くなる。

    『延吉から琿春県まで120キロほど離れています。私たちは11日かけて歩きました。みんなは死を覚悟した山越えからやっと解放されて山を下り、琿春県の電湾子に帰りつきました。そのとき残っていたのは出発した時の三分の一の人たちでした。 山を下りてから二才の妹が熱を出しました。熱はとても高く妹の口の中は真っ白になり、唇はひびわれて血がにじみ、かさぶたができていました。妹は三日間何も食べませんでした。食べることも飲むことも泣くこともせず、動きませんでした。  私たちは食べるものがなくなり、毎日中国人や朝鮮人の家に行き食べ物や飲み物をもらいました。私たちの受けた苦しみを分かってくれて残り物のたべものを分けてくれる人もいましたが、門から中に入れてくれない家もたくさんありました。琿春県に帰ってきた私たちは県の招待所の一階に入れてもらいました。私たちが住むことになった一階の土間はぬかるんでいました。中国の北部の10月はとても寒く零下になる日もありました。夜になっても寒さでなかなか眠ることができませんでした。ほとんどの人が風邪をひいて倒れました。医者もおらず、薬もありませんでした。三日ほど待って私たちは日本人の職員が住んでいた住宅に入ることができました。その家に入ってまもなく四才の妹と別れねばなりませんでした。妹が死んだのです。「もう少し早く死んだなら、苦しむことも少なく、おまえは幸せだったろうに。そしておまえの姉さんを疲れさせずにすんだのに」母はそう言って泣きました。妹が死んで私たちの悲しみは増しました。  この日から毎日のように死ぬ人が出ました。食べるものもなく、寒い日が続きました。私たちに与えられたのは皮付きの高粱でした。それは本当に食べられませんでした。みんな早く死にたいと言いました。』(Nさんの作文)

    11才の妹は中国人にもらわれていく。川の堤防の雪の中に倒れて母親は亡くなる。母親を埋めようとした地面は凍っていて掘ることができず、仕方なく雪の中に埋める。遺体は何日かたったある日突然なくなってしまう。 

    川の様子は大きく変わっていた。


        



    Nさんには日本に帰国後15年ぶりの琿春。雪の中に母を埋めた場所はわからなくなっていた。川のそばの空き地に線香と花を供える。

           



    琿春の街のはずれにあった古い家。

        



    Nさんたちは開拓団から遠く離れた学校に歩いて通ったが、炭鉱のこどもたちは馬車で迎えが来ていてうらやましかったという。その炭鉱だろうかボタ山が見える。英安鎮というところ。Nさんたちが延吉に集められた時、石炭を運ぶ汽車に乗せられたとある。この近くから汽車に乗ったのだろうか。

        



    いちめんに稲田がひろがり、黄金色に色づき始めている。Nさんたちの朝日開拓団では稲を作っていたという。入植者たちがひらいていった水田がどこまでもひろがっていた。

        

    13才で母を亡くしたNさんは生きるため7才の弟を中国人にあずける。中国人の農家で働きながら中国人と結婚し、内モンゴル、黒竜江省、大連と50年以上を中国で生きたNさん。 夜間中学の日本語の授業のなかでその壮絶な半生の一部を作文にしてくださった。その簡潔だが衝撃的な文の力が開拓団がたどった道のりを私に焼き付けてくれる。9月にしては強い陽ざしが西に傾き野も山も川も輝いている。夕方延吉にもどる。
    | 西の谷から | 17:29 | - | - | - | - |