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明窓浄机

明るい障子の前に置かれた小さな机。
きれいにかたづけられた小部屋に朝の冷気が満ちて…
と、まあ、こんな理想を描きながら、散らかった机の上で書いています。
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延吉第四小学校
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    「八月の末からひと月ほど大連におります。来られますか」という電話をもらった。夜間中学の卒業生Nさんから。
    夜間中学の日本語の授業で作文をNさんは中国語で書いた。11歳で開拓団として渡り、50年以上を中国で暮らした人には日本語よりも中国語のほうが表現しやすかったのだ。そこにはこう書かれていた。

    『広島が原爆で焼きつくされたあの日、私は中国の吉林省琿春県朝日開拓団におりました。戦争が終わる一週間ぐらい前のある日の朝、開拓団は全員琿春県に集まるように通知が出ました。私たちは簡単な荷物を持って出発しました。しかし琿春県のほうにはいきませんでした。どこへ行くのかだれも聞かされていませんでした。母が駅に行くようだといいました。私たちは駅から石炭をはこぶ汽車に乗って吉林省延吉市に集められました。朝日開拓団は延吉市の第四小学校に泊まることになりました。それから一週間ぐらいは日本の軍隊や商社の倉庫から生活用品がたくさん送られてきました。団長がそれらの品物を各家庭に配りました。食品はほとんど乾燥したくさらないものと缶詰でした。一週間後戦争が終わりました。八月十五日の朝、外がまだ少し暗いころ大きな車の音や人の泣く声がみ耳にはいってきて私は目を覚ましました。母やおばさんたちがみんな泣いていました。窓から外を見ている人もいたので私も窓から外をのぞいてみました。学校の前の道路に背の高いソ連軍の兵隊や大きな車が街の中に入ってきていました。となりのおじさんがわたしを見て涙を流しながら「戦争が終わったぞ」と言いました。そのときこわくて泣きだしました。』(最初の中国語の作文の全文日本語訳)

    中国語ではじめた作文は続きを書き進むうちに日本語に変わっていった。そこにはまさに棄てられた開拓団の人たちのその後の姿が書かれている。九月になり延吉から日本ではなく、開拓団のあった琿春県にもどることになり、Nさんは汽車に乗ってやってきた道を十日かけて二歳の妹を背負い七歳の弟の手を引いて歩くことになる。

    その電話に「延吉から琿春に行きたいです」といった。「私もいきます」とNさん。   


    大連から飛行機は瀋陽に寄って3時間ほどかかって延吉に着いた。Nさんたち朝日開拓団が収容されていた延吉第四小学校は北山小学校に名前がかわっていた。

        



    小学校の建物は当時のものが使われていて、収容されていた教室は2階だったとその方向を指す。

           



    この運動場で各家族ごとにご飯を炊いて食事の用意をしたという。

        



    「この階段おぼえています」 六十五年前の記憶。延吉第四小学校にいたときはほとんど校舎の外に出ることはなかったという。

        



    ちょうど九月、こんな日の朝にここを出て琿春にむかって出発したのだろうか。

        
    | 西の谷から | 10:37 | - | - | - | - |